2007年04月09日

「鈍感力」の時代



渡辺 淳一

鈍感力

赤瀬川源平さんの「老人力 」が出てきたときに、その発想の斬新さに感動を覚えました。若くていろいろなことが出来ることが良いという思い込みから抜ければ、年齢を重ねることは様々な経験をつむことであり、むしろ誇るべきこと。
個人的には、未だ心から言い切っているわけではありませんけど(笑)

巷で話題の「鈍感力」。著者が「愛の流刑地」の渡辺純一先生と知って納得するやら笑うやら。
フェミニストの私からすると、渡辺先生の著作は
「いったいそんなに男に都合のいい女がどこにおるねん!」(なぜか関西弁)「男の身勝手、我侭の押し付け、もの凄い妄想!」と突っ込みまくってしまうのですが、これも鈍感力のなせる技と考えれば確かに納得。

日本の社会は相手の意図や感情を敏感に察することを前提として成り立っています。良く言われる、「空気嫁」って言うやつですね。絶えず周囲に気を配り、相手の反応を伺う。それで神経をすり減らす。
ここを読んでくださる方はそんな方が多いように思います。繊細で感受性の鋭いことは確かに悪いことではありませんが、傷つきやすいという側面を持ちますね。繊細であるという性質を否定する方向ではなく、逆の「鈍感力」を伸ばして行ったら良い様に思うのです。

いかがでしょうか。リンク先のHPの対談も面白いですし、ぜひ覗いて見てください。
そしてこの鈍感力、自分を愛することに繋がっていくと思うのです。

渡辺淳一『鈍感力』(集英社刊)公式サイト
http://www.shueisha.co.jp/donkanryoku/
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2007年03月17日

大放浪〜鈴木紀夫さんのこと

私が鈴木紀夫さんと知り合ったのは鈴木さんの最後の旅「第6次ダウラギリ雪男捜索」の直前でした。

当時アルバイトをしていた編集プロダクションの社長が鈴木さんの古い友人で、捜索のスポンサー集めをしていた鈴木さんが立ち寄られたのでした。捜索の企画書に誤字が見つかりワープロでその文字だけを打ち出して切り張りなんていう時代で、その作業をしながらいろいろお話を伺ったりしていました。3,4回いらしたでしょうか。
鈴木さんを語るには小野田寛郎さんのことに触れざるを得ません。最後の日本兵のお一人。残置諜者という命令を受けていたために、終戦やその後の日本の事情を知っていてもたった一人で戦闘を続けていたのです。捜索中の実の兄の姿を目撃しても出てこなかった小野田さんの心を開いたのが鈴木紀夫さんです。

冒険家といえば聞こえは良いですが、実際の鈴木紀夫さんはただ、雪男に会いたい、小野田さんに会いたいというだけで行動してしまうとてもシンプルな方でした。天真爛漫で屈託のない破天荒な笑顔、雪男捜索にかける情熱に引きこまれてしまいます。弁の立つ方ではないのになんでしょう、とても不思議な方だったのです。
「ふりすぴさん、今日はねぇ、マグロ倉庫に行って来ました。ヒマラヤは寒いからテストしないと」
と、某社ハンディカムを手にして
「品物は出してくれるんだけど、金はなかなか出してくれないんだよ(苦笑)」
かばんからは某社カロリーメイトがはみ出しています。私も鈴木さんと話しているうちに本当に雪男がいるような気持ちになってきました。
「鈴木さん、私も連れて行ってくださいよ。本気で雪男に会いたくなって来ちゃった」
「いいよ、いいよ、ふりすぴさんをひん剥いて転がしておいたら、あっという間に雪男が来るよ」
他の人から出る言葉でしたら単なる軽口で済むのですが、鈴木さんの口から出ると本当に「雪男のえさ」にされそうな気がして臆病な私は慌てて取り消してしまいました。

きっと雪男を発見してくれるに違いないと思っていたのですが、今度は鈴木さんが捜索される立場になり、雪崩に巻き込まれて亡くなったことを知ったのは週刊誌でした。
もしあの時一緒に行っていたら鈴木さんは遭難しなかったかもと思ったり、行かなかったから今自分が生きていると思ったり。

久しぶりに本を読んでみて、やっぱりまだどこかで生きているような気がするのです。そうでなければ天国で雪男と酒盛りをしているのかもしれません。

何かがそこにある。何かが僕を待っている。その何かを探し求めてまた国境を越える。そこにも人間が生きていた。朝起きて顔を洗ってメシを食って仕事に出かける。何の変哲もない生活の連続があった。
 しかし、僕はその平々凡々たる人間の営みのなかに飛び込むことによって、貴重な体験を重ね、生きている充実感と満足感とを味わった。これが旅というものだろう。


鈴木 紀夫

大放浪―小野田少尉発見の旅

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2007年01月02日

新年ぐらい理想を語ろう


私はとてもお金のことに疎くて「投資」とか「利殖」なんて言われても、理解できないと投げ出してしまうような人間です。バブルの時代も見てきましたし、最近の世の中を見ているとあぁまたやってきたなぁと、まるきり自分のこととして考えられないのですね。もっともカツカツで生活している現在、増やそうにも元手が無いわけで、とても心安らかにしていられますけど。
お金がお金を産んで、増殖していく商品としてのお金。そのシステムが頭では理解できても、どうしても腑に落ちないのです。じゃぁそのお金はどこから来るの?
村上氏や堀江もんはコンピューターの画面上の数値をどのように実感していたのでしょう。

ミヒャエル・エンデの「モモ」を御存知の方は多いと思います。
時間泥棒である灰色の男たちに「お金」を感じた方々も多いのではないでしょうか。
この本は1999年5月のNHKのドキュメンタリーから生まれました。
生きていく以上避けて通れないお金の問題。私たちの喜びや幸せ、第三世界の飢えや貧困もお金の存在と密接に繋がっています。
詳しいことは読んでいただくことにして、私が感じたことはお金が増えていくシステムというのは恐怖と不安、不信に基づいた思想であるということです。

もう何千年も前から人々は分業で働くことをしてきました。自分でパンを焼くより、得意な人に焼いてもらったほうがコストが安く美味しいのです。その代わり自分はスーツを仕立てます。パン屋さんや他の人がそれを着るわけです。その思想は友愛です。他の人への奉仕です。そういった労働には喜びがあります。

それを便利に成り立たせるために人間はお金を発明しました。それなのに私たちはいつの間にかそれを見失ってしまったのですね。まるでお金に支配されて、お金のために仕事をしています。でも本当はお金は私たちに喜びをもたらす道具だったはずです。
この本ではそれを変える為の試みが紹介されています。時間とともに減価するお金、地域通貨の実践。それらはそれぞれの地域に経済的な活性化をもたらし、かつ喜びと奉仕をもたらしている結果が語られています。それらは絵空事でなく実現可能なシステムなのです。

何千年も前から自然発生してきた現在のシステムを変えることは困難でしょう。私だって実際病気になったらどうしよう、働けなくなったらどうしようと思います。
それでも人は理想を忘れてはいけないと思うのです。
エンデは言います。
「お金は人間が作ったものです。変えることが出来るはずです」

最後に少し長くなりますが「モモ」の一説を引用したいと思います。
「灰色の男たちは、いったいどうしてあんなに灰色の顔をしているの?」
「死んだものでいのちをつないでいるからだよ。おまえも知っているだろう、彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主から切りはなされると、文字どおり死んでしまうのだ。人間というものは、ひとりひとりがそれぞれのじぶんの時間を持っている。そしてこの時間は、本当に自分のものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ」
「じゃあ灰色の男たちは、人間じゃないの?」
「ほんとうはいないはずのものだ」

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2006年12月25日

あらゆる可能性



カール セーガン, アン ドルーヤン, Carl Sagan, Ann Druyan, 柏原 精一, 三浦 賢一, 佐々木 敏裕

はるかな記憶―人間に刻まれた進化の歩み〈上〉
先日「はるかな記憶―人間に刻まれた進化の歩み」を御紹介しました。記事が長くなるので割愛しましたが、後編を書いてみたいと思います。
地球上で何億という生き物が誕生し絶滅していきました。
植物、昆虫、魚、動物…
今では様々な種類の生き物がいます。単細胞から人間まで。そして人類はこれからもきっと進化していくのでしょう。
進化の過程はどういう風に行われたのでしょうか。なぜこんなにたくさんの種類が生まれたのでしょうか。
それは遺伝子のいたずらです。ちょっとした偶然や、紫外線の影響、様々な間違いが実は進化の原因です。無性生殖でも、有性生殖でもそれは変わりません。もともとの生き物とは少し違う、それは生存に適していないものが殆どですが、そういったものは淘汰されていきます。けれどたまに生き残っていくために有利になる間違いもあるのです。環境の変化に対応できるものだけが生き残っていける、地球の状態は様々に変化しました。
様々な特質を持った個体のプールが変化のときの保険になりました。変化に適応できない個体は子孫を残せず、生き残っていける個体の子孫が次の世代へ繋ぎます。
そうやって長い年月の間を経てきたものが今見ることのできる種です。それがこんなにたくさんの種に分かれたということは始めの「いのち」が生きていくうえであらゆる可能性を考えていったような不思議を感じます。もし間違いや偶然がなかったら私たちは今でも単細胞のままです。
私たちは生きていくうえで様々な変化に遭遇します。今私自身生活の変化の渦中です。正直不安を抱えていますが、必要以上に恐れないように気をつけたいと思っています。エッセンスの助けも借りてね♪
posted by 花のしずく  at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月22日

はるかな記憶―人間に刻まれた進化の歩み



カール セーガン, アン ドルーヤン, Carl Sagan, Ann Druyan, 柏原 精一, 三浦 賢一, 佐々木 敏裕

はるかな記憶―人間に刻まれた進化の歩み〈下〉
久しぶりに引っ張り出して、以前はなんと浅い読み方をしていたのかと思いました。これは殆ど哲学書に近い本だと思います。

テレビ番組で野生動物を見ると、私はいつも動物とはなんと美しいのだろうと思います。見た目だけではなくて、ただ生きるために生きている、その真剣な姿が美しいとは思いませんか。
本書では進化の歴史が語られています。
ある日「いのち」は地球の上で誕生し、どんどん増え、進化を重ねて行きます。それは淘汰と適応の繰り返しでした。生き残れるものだけが次代に「いのち」を繋いでいくのです。恐竜を始め、今まで何億種類の生き物が生まれ、死んでいったのか想像もつきませんね。

細胞分裂のような無性生殖から始まり、ある日「いのち」は有性生殖に進化しました。無性生殖の生き物はある意味、死にません。どんどん自分のコピーを作っていくだけだからです。
ところが有性生殖の「いのち」ではコピーはありません。つまりそこで初めて「有限の生」が誕生したのです。
アダムとイブのお話を思い出してみると面白いことに気がつきます。イブはアダムの肋骨から作られ、その当時は死ぬことは無いと神に言われていました。知恵の実を食べて、裸でいることが恥ずかしいと思うようになり、つまりは性を意識したときに死ぬ身体になったのです。神話は進化の歴史を知っているかのようですね。
自分たちの種族が絶えることなく続いていくように生き物たちは様々な工夫を凝らしました。私たちは死ぬ身体を持つから子孫を残すのです。言い換えれば「愛」しあうために生きているのです。
生き物は「快」を求め、「不快」を避けて生きます。なぜなら「快」こそが生存に適しているからです。だから「快」を追求していいのです。決して刹那的に生きろと薦めているわけではありません。でも私たちは幸せを感じるために生きているのではないでしょうか。

本書後半の人間以外の霊長類との比較もとても面白いです。ある意味残酷で、ある意味優しく、人間ほど複雑ではありませんが、きちんとルールと調和を持って暮らしています。
私は人間には知性も理性もあり、動物と一緒にするなんてと、ずっと思っていました。けれどこの本を読むと、そうではありませんでした。いかに違うように思えても人間とサルは大差ありません。私たちは「生き物」なのです。
そうしてそのことを、いつかテレビで見たサバンナを駆け抜ける動物たちと私が同じ存在であることを嬉しく思います。彼らに恥じないよう真剣に生きなくてはね。
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2006年12月18日

自由訳イマジン



ジョン レノン, オノ ヨーコ, John Lennon, 新井 満

自由訳 イマジン
なぜか年末になるとこの曲が時々流れますね。
実を言うとジョン・レノンの曲の中で余り好きなほうではありません。余りに現実離れしていて夢物語。歌詞はオノ・ヨーコの影響をもろに受けているし、若い頃の私には絵空事に響いたような気がします。
最近ようやく歌詞の意味がわかるようになってきたけれど、それでもジョンというアーティストの本質ではないと個人的には今でも思っています。
先日他のブログでジョンレノンの記事を書いたときに気になっていたのですが、この自由訳はかなりいいと思います。イマジンの精神を理解しやすく訳してあります。
ホンの一部を抜粋してみますね。

本当に
あるかどうかも分からない
そんな天国に
わくわくさせられたり
そんな地獄に
びくびくさせられたり
そういうことって
ばかばかしいことだとは思わないかい?

なぜなら
僕の人生の主人公は
誰でもない僕自身なんだから
大切なことは
ぼくが僕自身の心と頭で判断し
決断すること
そして今を
どう生きるかってこと


自由訳の部分は10分ほどで読めるので書店で見かけたら是非手にとって読んでみてくださいね。


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2006年12月03日

愛されない子



トリイ ヘイデン, Torey L. Hayden, 入江 真佐子

愛されない子―絶望したある生徒の物語
読む本はノンフィクションが多いですね。事実は小説より奇なり。
トリイ ヘイデンは殆ど全部読みました。いつもいろいろと考えさせられます。トリイはいつも悲惨な状況にいる子供たちと正面から向かい合い、彼らの成長を助けていきます。
子どもたちは日々成長していきます。「愛」を食べて成長している、と言っても過言ではないでしょう。さまざまな過酷な状況にいる子供たちに障害児学級という教育現場でトリイからの「愛」が注がれ、成長していく過程がリアルですし、傷ついた子供たちが成長していく逞しさにいつも感動を覚えます。
「起こってしまったことは仕方が無い、大切なのは未来のために今何をするかです」と相手が口を開こうと開くまいと日々根気強く話しかける。抱きしめる。それは本当に気の遠くなるような毎日だと思います。
トリイを読んで思うのは、クラスのまとまりを非常に大切にしている。ということです。生徒と先生という関係だけではなく、障害児同士の交流が突破口になるということも多々あるようです。
この「愛されない子」では必要だった助手に生徒の母親が名乗り出て、しかし彼女自身情緒障害を抱えていて、まるで生徒がひとり増えたかのような状況。けれどクラスというひとつの単位の中でお互いに成長していく。
トリイは自分ひとりで総てを抱え込もうとはしないし、その限界を知っています。それでも手を取り合い、皆で成長させようというトリイの強い意志が美しいといつも私は思うのです。
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パンドラの火花



黒武 洋

パンドラの火花
事件から35年経った死刑囚が過去の自分に犯罪を思いとどまらせようと説得する説得する話です。小説としてのまとまりには欠けるのですが、着想がとても面白かったです。本当にいろいろ考えさせられました。誰しも抱える後悔、弱さ、迷い、逡巡。打破したい「今」とかなえたい「願い」。取り返しのつかない過去はお話ではないのですからいまさら変わるわけでもありません。
未来のことは分からないし、未来の自分も「今」の自分とは変わってゆくでしょう。自分ひとりで生きているわけではないですから、相手もまた変わっていきます。何もしなければ変わらないと分かっていて身動きの取れない自分へのもどかしさ。いつも読んでいるアンジェラさんのブログに支えられている感じです。記事らしきものを書いてみてはやめ、そんな状態が続いています。
捉えどころの無い「今」という時や、「私」に向き合って逡巡している感じかしら。私はモニターの向こうに居る誰かにいつも何かを伝えたい。その衝動は止まることなく続いています。私はその衝動を大切にしたい。それが自分を大切にすることだから。ならばまとまりのつかない私をそのまま伝えるしかないのです。

大好きな方々へ、いつも見守っています。
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2006年11月12日

ロイヤリティのありか



ジェーン・ジャスカ, 清宮 真理

ふしだらかしら-老嬢ジェーンのセックスとロマンをめぐる冒険



私はふしだらな女。誰とでも簡単に寝ます。67歳の尻軽女です-。
「67歳になる来年3月までに、好みに合った男性とたくさんセックスしたいのです。まずは会話からとおっしゃるのなら、話題はトロロープでいかが?」。すべては「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」に掲載した個人広告から始まった。アントニー・トロロープの小説が大好きな教養ある女性英語教師が綴る、可笑しくて、ちょっぴり哀しくて、そしてまったくユニークな全米ベストセラーノンフィクション。
                               アマゾンのレビューより

何よりも実話というところが凄い。何でこんな本を手にとってしまったのでしょう。
ある66歳の元女性教師が有名な書評誌に広告を打ちます。
離婚歴のある彼女は息子を育てながら教職に打ち込み、退職後もボランティア活動をして充実しているはずなのに寂しさを感じます。
人との具体的なふれあいが無いのです。教師をしている間は生徒たちが身の回りにいて性的なものでなくとも身体的な接触があったのです。それが無くなったことがひとつの理由でした。
だったらパートナーを探せばいいと思うのですが、彼女はそうは思いません。
彼女の望みは「67歳になる来年3月までに、好みに合った男性とたくさんセックスしたいのです」これに尽きます。

ちょうど私の母が彼女と同じ年です。母がこんなことを始めたら私はショックで寝込んでしまうでしょう。そういったことも含めて、乗り越えて挑戦しようという彼女の勇気にまず敬服です。

申し込みの手紙が来てそれを選別し、とりあえず気に入った人と写真の交換をしたりメールのやり取りをしたりしていざ実際に会う段になって怖気づいたり、ひどいことを言われて傷ついたり本気で恋をしたり落ち込んだり。

アメリカのおばあさんだからあんまり「痛い」とは思わないけれど、いざ自分がこういうことを出来るかといったらやっぱりできないだろうなぁ。それでもやっぱり傷つくことを恐れずに挑戦する彼女をとても凛々しく感じますし実際魅力的な人だとも感じます。ふしだらなんてちっとも思いません。彼女は自分自身にロイヤリティを持っているから。
私の感覚ではふしだらというのはロイヤリティに欠けた状態、平気で裏切ることの出来る人間の事を指していると思うのです。

傷つきながらも共感してくれる友人を持ち、そうして何人かの(単なる)セックス(だけではない)フレンドと楽しんでいる彼女はやっぱり光り輝いていると思うのです。でも同じように自分に対してロイヤリティを持とうとしている私は、せめて66歳になったときにこんなことを思わなくて良いような状態でいることを願うばかりです。

何が怖いって、一番怖いのは自分。何をやりだすかわからないから…

でもデビット・ドゥカブニー似の若い男性と過ごすことが出来るなんて
物凄く羨ましいし、それは彼女の勇気への報酬のような気がするのですよ。
いろんな意味でドキドキさせられる本でした。

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2006年11月05日

ほんとの自分は痛い



中村 うさぎ

美人とは何か?―美意識過剰スパイラル
「ブス自意識、ババア自意識を抱えながらままならぬ現実と欲望の間で戦い続ける」
言わずと知れた中村うさぎさん「ショッピングの女王」様です。ははぁ
「ショッピングの女王」は週刊文春で読んでいて、初めの頃はちょいと引き気味。でもやっぱり面白いのよね。今考えると彼女のエッセイは非常にブログ的。ホスト通い、顔面改造を経て書かれる「美人論」。期待通りでした。

いやぁもう痛いほど伝わってくる「痛さ」。女王様の「痛さ」はそのまんま私の「痛さ」なのだなぁ。
だって人間ほんとの本音はみんな痛いよ。
金が欲しい、若さが欲しい、モテたい、遊びたい、注目されたい、愛されたい
それをそのまま体現しちゃったり、公言しちゃったり、挑戦しようとする「自分に正直な人」はみんな「痛い人」なのだ。

日本には謙譲の美徳と言うのが存在していて、目立たなく慎ましくしているのが美しいと感じるメンタリティが存在する。あるいは武士は喰わねど的な美意識。本音そのまま剥き出しって言うのはやっぱり上品とは言い難い。
要するに自己主張の強い女性は受け入れられないか、見世物になるわけだ。

上に書いた美意識は自分にもあり、自分の真実を生きるというのは自分にとってすら「痛い」。
ましてや他人から見たらブスでババアが何言っているんだ!ということにしかならず、非難などされたら「御もっともでございますぅ」と謝りたくなっちゃうような「痛さ」がそこにはあるのね。
だって自分でもそう感じるのだもの。

実はこの「目立たなく慎ましくしているのが美しいと感じるメンタリティ」というのが本当かどうかという問題がある。
つまり「痛いほど自分に正直な人」はその欲望を追求するためにとてつもない努力をするしかなくて、それは辛く大変である。だから「身の程を知る」という言い訳の元、努力を放棄したりする。そのくせ自分でそれを認めたくないがために他人の努力を見て「ブスでババアは身の程を知れ」なんて非難したりするのね。
ぐあぁぁぁ…本当の自分でいるって、とてつもなく大変で気力のいることなんだ。
「もう良いんじゃない?」と弱い自分が語りかける。
しかし私はもう1冊の凄い本と出逢ってしまったのであった。それは次回に。
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2006年09月18日

ダーク・ハーフ 〜二つ名の罠とブログ人格

〜暴力小説を書くためのペンネームを葬ったとたん、ペンネームが実体化して、再び小説を書かせるべく襲い掛かってくる〜

スティーブン・キングの作品は読もうかどうかいつも考えてしまいます。
彼が主に取りあげているテーマは「恐怖」。
詳細で剰舌なディティールが時に私には刺激的すぎ、それでも続きを読まずにはいられない話の面白さがたまに苦痛に感じられるので。

ブログで自分に与えるHN。
幾つも、それこそ雨後のタケノコのようにブログを書いている私は、ふたつなどころか一体いくつの存在を抱えているのでしょう。
そのどれもが自分自身、普段表現出来ない自分自身だったりします。

人は多面的で重層的な存在です。
自分の内面を深く抉りだすことは、匿名性の高いネットの世界だから出来ることで、実際の生活ではなかなか無いことなんですね。
日常のあれこれを書いているだけならそうでもないのでしょうが、ブログとして面白く成立させようと思ったら、HNは次第に独立した存在になってきます。それは私だけのことでは無いようです。
多かれ少なかれ誰しもある程度のブログ人格というのは、もっているのではないでしょうか。
時にそれに振りまわされ、乖離に悩んだり、またある程度続けていると表現できない部分が苦しくなって、また別のブログが誕生したり。私はずっとそんなことの繰返しです。

暴力的なブログを書いてはいませんので身の危険はありませんでしたが、かなり似通った状況に陥った経験から、今回この本は途中で読み進むことができなくなってしまうほどリアリティがあり怖かったです。自分の中でくっきりと分かたれていた世界がいつの間にか入り混じり、混沌としていく。自分自身の輪郭線があやふやになり、自分を見失ってしまったり、混乱したり。だからこそエッセンスと出会ったわけですが。

もしかしたらそのブログ人格の中にこそあなたの真実が隠されているのかもしれません。認められないかもしれませんが、現実のあなたに統合されるといいですね。エッセンスはその手助けになると思います。

映画化もされているようです。ゾンビもので有名なロメロ監督。エイミー・マディガンは可愛くて好きな女優さんだけど、そのグロさを想像するに多分見ることはないと思いますが。


スティーヴン キング, Stephen King, 村松 潔

ダーク・ハーフ



ポニーキャニオン

ダーク・ハーフ

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2006年09月12日

怒るべきときに怒ること

 [智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。]夏目漱石,草枕の冒頭です.
「女子供文化評論家」の荷宮和子さん若者はなぜ怒らなくなったのか―団塊と団塊ジュニアの溝
を読んで,今まで莫然と感じて来たことに,明確な回答を得た気がしました.
自分の生育歴から自身がマイノリティであることは十分自覚していて,それでも自分はこう思う,こう感じる,こうしたいと主張することはとても角が立つのも知っているのです.時にそれで自分が傷つく事もしばしば.日本というもともと[和をもって尊し]とする社会で「自分」であることの如何に生きづらいことでしょう.
 そんな反抗期の若ものじみた自分に嫌気も差すし,だからといって自分がそうではないと思うことには,どうしても簡単に従えないのです.
 心のなかで何かが違うと感じたまま,周囲の輪のなかに存在するくらいなら,一人で居たほうがよっぽどマシ.
 ティーンエイジャーのブログを読みますと,周囲の中で心の底から溶けあえない自分に苦しんで,それでも仲間はずれにされたくないがために表面上合わせている,何か自分を偽っている感じにずっと悩んでいるのがいるのがよく分かります.そのなかで曖昧になっていく自分を確認したいがためにリストカットに走ったりしているように感じるのです.適当な所で折りあえない潔癖さは十代ならではのものですが,学校という一つの社会の中にいるしかない彼らの閉塞感に深く同情を覚えます.

若者はなぜ怒らなくなったのか―団塊と団塊ジュニアの溝は世代論です.団塊の世代と,団塊ジュニアに挟まれた私たちの世代は,世の中で違和感を覚える事がしばしばです.「赤信号みんな渡れば怖くない」と言ったのは団塊の世代のビートたけしでした.私も赤信号を渡ることに躊躇はありませんが,それは自己責任.周りを見渡して自分で安全を確認して渡るものと思っています.

 団塊の世代が自然に持ち合わせた「そうだ!そうだ!」体質は,とにかく数が多いですからそれが通ってしまうのです.彼らが子育てをした結果,「世の中の大勢に合わせていれば何とかなる」つまりは自分の頭で考えることの出来ない若者が社会の中枢を担いつつあります.彼らは常識を疑うことをしませんから,その中で「決まっちゃったことはしょうがない」「みんながそうするからそうしよう」と簡単に受け入れてしまえるのです.私なぞは始終怒ってばかりいて,怖いと言われてしまいますけれど.

 荷宮さんによると私たちは「くびれの世代」と呼ぶのだそうで,丁度社会に出たときに,相手にびっくりした顔で「女の人は初めてです」と言われ続けてきた世代です.前例を破りつつ生き抜いてきた世代からすると,何にも考えない「怒るべきときに怒れない」世代はまるっきりバカに見えます.そうして彼らが社会の中枢を担うようになってきた現在,将来の日本に対して非常な不安を覚えます.大勢の人達の「気分」「情」「表面上の和」で社会が動いていくような気がするからです.ここで書いた「バカ」というのは知的能力とは全く関係ありません.考えて行動するのか,そうではなく周囲に「反応」しているだけなのか.

 人間が「考える葦」であるなら,考えない人間は「ただの葦」です.端から受け入れてもらうことは諦めているマイノリティであるからこそ,愛を込めてバカにははっきりバカと言ってしまって構わないのではないかと.強者から言われれば苛めですが,せめてバカと呼ばれた人が少しでも考えてくれればと思うのです.

「花のしずく」的にはちょっと過激な記事ですが
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2006年09月07日

マサイの恋人〜ルケティンガの話



コリンヌ ホフマン, Corinne Hofmann, 平・ 卿子

マサイの恋人


この衝撃的な手記を読んで私は本当に驚いたのだが、ふとルケティンガは彼女のことをどう思っていたのだろうと思った。コリンヌは確かに自分の真実を貫いた。しかしルケティンガはどうだったのだろう。この本はコリンヌの視点で描かれている。しかしもう一方の村人公は文字を読むことも書くことも出来ない。コリンヌの文化も知らない、そういうマサイの若者がどのように彼女を捉えていたのだろうか。

たまたまフェリーで一緒になった白人女性が親切に牢獄から自分を救い出してくれた。その後何回か逢いに来てそのまま居座ってしまったのである。マサイでは何人かの妻を持つことは普通のことだ。彼女は彼を・遜まで引き回し、その度に・人から嘲られる。しかし彼女は車を手に入れ、店を持った。それはすなわち自分の財産でもあり彼の自尊心を満足させたに違いない。必要になると彼女の母親から(実は彼女のものなのだが)お金が送られてくる。

彼がコリンヌをどの程度愛していたのかは、私には全く分からない。コリンヌの文章からは全く見当も付かないのだ。男性と女性ではそもそも人生における「恋愛の重さ」が決定的に違うと思う。コリンヌは恋に全てを投げ打つことは出来ても、男性でそこまで出来る人はいないと思う。
コリンヌにとっては唯一の恋人であっても、ルケティンガにしてみれば何人かめとることの出来る妻の中の第一番目でしかなかったのではないだろうか。マサイ族の文化で「恋」というものがそもそもどれぐらいの重みを持つのだろう。人間だから恋はするだろう。マサイ族がそうかは知らないが、親の決めた相手と揃婚するのが当然の村会では「恋」の価・はほとんど無きに等しい。恋愛観の相違をコリンヌはどこまで気が付いていたのだろうか。
彼にとってはマサイ族の中での自分の立場のほうがよっ造ど重要であり、周属の誰も持っていない車や店を買うことが出来るコリンヌを失いたくない。コリンヌが辟易した気違いじみた嫉妬も、純粋な愛情と言うよりは、飼っている羊を失いたくないのと同じように、財産や立場を失いたくないように私には読めてしまうのだ。

その文脈で読むと、この物語はルケティンガにとってコリンヌは全てをもたらし、全てを奪っていった存在。

あとがきでルケティンガはマサイの女性と揃婚し、子供をもうけたらしい。コリンヌも再婚して、けれど今も引き続き彼を援助しているという。

ただ私は双方の思いの食い違いを思うと少し切なくなるのだ


マサイの恋人〜コリンヌの話

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2006年09月05日

マサイの恋人〜コリンヌの話



コリンヌ ホフマン, Corinne Hofmann, 平野 卿子

マサイの恋人


まるでSFのようだと思った。恋人と一緒に遊びに来た27歳のスイスの女性がマサイ族の戦士に一目惚れし、国も仕事も何もかも全てを棄ててケニアのブッシュで暮らすのだ。言葉も通じない、まるっきり文化も違う。その4年間の彼女の軌跡を書いている。

以前何かの書評で目にし、一度読んでみたいと思っていた。あり得ない。決して私は人種差別をしたり、何かの文化を軽く見たりすることはないのだが、だからといってマサイ族の人と恋愛に陥るかといえばどう考えてもあり得ない。確かに写真で見る戦士ルケティンガは非常に美しいと思う。だからといって主人公コリンヌのように半裸で暮らす人と恋愛は出来ないと思う。

恋愛に落ちるときに相手と自分の違いに惹かれ、自分と相手の共通点に親しみを覚える。これが車輪の両輪のように恋愛を深めていく。普段から国際恋愛や国際結婚をする人たちのエネルギーって凄いなと思っている。ある意味分かり合える部分が少ないから言葉による多少の行き違いではめげないのだろう。国が違えば感覚が違う。多少のことは目をつぶることが出来るし、美しい誤解のまま一生を添い遂げることだって可能かもしれない。けれど私自身は今まで外国の人にそういう気持ちを持つことが出来なかった。

想像してみて欲しい。いくら好きだからといって、テントより粗末で小さな小屋で、全く違う食習慣をもち、自分の夫と一緒に食事をすることも出来ない文化に飛び込んでいくのだ。言葉が通じないだけではない。キスの習慣もないためルケティンガは不快な顔をする。双方が片言に近い英語でコミュニケーションをとる。相手は足し算も出来ない。何度もマラリアで命を落としかけながら、出生証明のようなものもなく、正確な年も分からない相手と、正式に結婚するための手続きを取る。その乗り越えるハードルの高さを想像するだけで私などは卒倒してしまいそうになった。

その激しい愛の終わりは彼女がマサイの文化に馴染めなかったなどと言うことではなかった。ルケティンガの嫉妬である。ろくに入浴も出来ない文化や、栄養失調のことで彼女は不平を述べていない。ただルケティンガに信頼されなかったこと、この一点である。ルケティンガは周囲から白人の女は誰とでも寝ると言う風に常に吹き込まれていた。半ばノイローゼ状態のルケティンガに常に監視されるようになって、彼女は逃げ出したのだ。恋愛の寿命は4年であるという話を聞いたことがある。ひとりの相手に対して恋愛ホルモンの出る期間だ。もしかしたらそれが切れたためかもしれないとも思う。

マサイの恋人のことしか考えられない。ルケティンガの気持ちすら分からないのになんと無謀で愚かな恋だろうと思う。けれど多分それが彼女の真実だったのだろう。この真摯さに率直に胸を打たれる。そうして巻末のインタビューで彼女は言い切るのだ「後悔したことはない」と。
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2006年05月14日

ジェーン・フォンダ わが半生

何でも持っている人だと思っていたジェーンフォンダ。美しさ、女優としての名声、富、知性、行動力。
ヘンリーフォンダの娘だというだけではハリウッドでは通用しない。女優として、ワークアウトの事業家、社会活動家として精力的に活動し、どれもが成功を収めている。3度の結婚離婚暦だってキラ星のようだ。その彼女が過食症で悩んでいたなんて。人が羨むような全てを持ちながらその内面に抱える空虚。
「あるがままの私」「本当の私」を見つけるまでは、どれほどの才能、努力を持ってしても苦しむものらしい。
思うに彼女は自分の理想に自分を合わせるために前進し続けたのだろう。いくら前進してもたどり着けない。人は完璧を生きられないから。

カーリーエッセンスがどのように効いているのか私には良くわからない。
客観的にみるならば、今の私の状況はかなり追い詰められているといえるかもしれない。ただ、彼女と対照的に何も持っていないに等しい私が今感じているこの多幸感は何なのだろうか。慣れない幸福感に居心地の悪さすら感じている。何か気づいたわけでも悟ったわけでもなく、なんでもないことがただ楽しく幸せ。これは一時的なものなのだろうか。正直戸惑いを隠せない。これが「あるがままの私」「本当の私」なのだろうか。無料

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2006年05月09日

メリッサの旅



ドロシー ギルマン, Dorothy Gilman, 柳沢 由実子

メリッサの旅―ドロシー・ギルマン・シリーズ


こんな素晴らしい本を、なぜ読み返さなかったのだろうか。奥付を見ると2001年とあるから5年も前に買っていた本だった。なんとなく書棚から取り出してそのまま一気に読了。
「おばちゃまシリーズ」で有名なドロシー ギルマンは大好きで、日本で出ているものは全て手元にある。彼女の作品に共通しているものは、心に傷を負った若者の成長の記録だ。主人公の登場の時にはだいたい怯えており、孤独で精神科の医師にかかっていたりする。ひょんなことから何かに巻き込まれ、その中で次第に自立し、成長していく過程が描かれていく。もちろん話のたて筋はさまざまな事件だったり、謎を追って行ったりして、そのストーリーもいつも楽しめる。主人公と一緒にドキドキハラハラしながら彼らの成長の軌跡を追っていくことが出来るのだ。それでいて軽く読めるところも気に入っている。

今までこの本を再読しなかったのは、自分にとってあまりにも痛すぎて向き合えなかったのだと思った。自分の人生に言い訳やごまかしをしながら責任からも逃れようとしていた。私がエッセンスを使いながら次第に学び取っていったことが、全てこの本に書かれている。本書でも、そのほかの彼女の本でも是非手にとって読んでいただきたいと思う。
生きる勇気が湧いてくるはずだ。
posted by 花のしずく  at 23:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月01日

ハリー・ポッターと謎のプリンス

ブログを始めて2年以上。ほぼ毎日何かしらの更新をずっとして来ました。
そういえば2年前に確かこんな記事を上げた記憶が。

ハリー・ポッター読書中につき、ごめん!

そろそろこの日がやってきますね。今からわくわくどきどきしています。実は私はハリポタマニア(爆)
何しろ待ちきれなくて4巻は洋書を買ってきて読み始めたのですが、一日1ページが限度。しかもUK版だったのでイギリス単語に悪戦苦闘。ついにクィディッチの試合のあたりでどうにも挫折…orz

5巻は反省を踏まえてUSA版を買ってきたのですが、まとまった時間がとれずに、なかなか進まず、そのうちに日本語版が出てしまいましたとさ。ToT
えっ?第6巻は買っていないかって…?
挫折の歴史をこれ以上増やしたくないと言うか…単にブログ中毒ゆえ…

エッセンスは魔法みたいっていつも思うけれど、そういえばハリポタも、エッセンスもイギリスが発祥の地でしたね。
と言うわけで、17日の発売日には更新いたしませんので、ご了承くださいませ。



J. K. ローリング, J. K. Rowling, 松岡 佑子

ハリー・ポッターと謎のプリンス ハリー・ポッターシリーズ第六巻 上下巻2冊セット (6)

予約が未だの方はこちらからどうぞ!
posted by 花のしずく  at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月31日

肩の力が抜けたかな

スタートデザートピーを飲み終わってピンクイルカで1週間。

気持ちの上下がかなり激しかったですね。
エッセンスの効果をその日の気分で書いてしまったら、いったい何なのということになってしまいます。
しばらく書くことが出来なくなっていました。
私にとって書くことは話すことと同じ。まだ以前の調子が出ません。
この間友人と話をしていて出てきた言葉が、今やはり本音だなと思っています。
「若い頃って人格者になりたいとか、人にいい人って思われたいとかつい考えちゃうけれど、もうそんなことどうでも良くなった。誰かに偉いですねとか、立派だなと思われたってそれだけだもの。自分が楽しくしていられるのが一番だなって」

少し肩の力が抜けて、最悪の気分は抜けたかしら。
なんだか泣きたい気分だったのですが、なかなか泣く時間が取れなく(爆)て、昨日の夜しみじみと泣きながら少しずつ癒されつつあるのかな。
引き続き、ピンクイルカエッセンスは飲みます。周囲の状況がまだ不透明なので、できればブルーベリーカクタスを足したいところですが、どうなんでしょう。無料
posted by 花のしずく  at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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